人の死って悲しいものですよね。同年代の友人が病気でなくなってしまったのですが、訃報を聞いたときは衝撃のあまりしばらく声が出ませんでした。なぜこんな若さで…。
亡くなった人を追悼するのはいいことだと思います。お世話になった恩師や親しい友人である故人を偲び、楽しかった昔のことを思い返すのは自分の悲しみを癒やすのにも有効だと思うからです。
しかし、やり方として葬式や法事といった形にする必要があるのか?という疑問を私は以前から抱いています。
現時点では、例え私が死んだとしても葬儀なんかしてくれなくていいと考えています。残された人にはもっと有意義にお金と時間を使ってほしいのです。
今回は私がそのような考えにいたった経緯をご紹介します。
故人を偲ぶのに高いお金を払って式の形を取る必要があるの?
少し前の話になりますが、私の近親者が亡くなって葬儀の準備をしたことがあります。
経験されたことがある人なら分かると思いますが、あれってめちゃくちゃ大変なんですよね。亡くなって数日のうちにお通夜・葬儀・告別式までの段取りをし、それらを準備していかないといけないからです。
故人と自分の関係性にもよりますが、親とか子供とかの親等がものすごく近い人だったらほとんど寝る暇ないくらいです。仕事はさすがに休めるでしょうが、それでも時間は足りないと思えるでしょう。
そして同じくらい負担になるのが金銭面。全然想定してなかったような大金があっという間に飛んでいきます。
最近はあまり大掛かりに葬儀を行わない密葬形式も増えてきているようですが、それでも普通に生活している状態の出費から比べるとかなり負担になる金額です。
人が死んだときまでお金の話なんて…て思うかもしれません。でも実際に経験されるとわかると思いますよ。お金が有り余ってる人なら別ですが。
これを経験してふと思ったのです。これだけの時間・労力・お金を使って葬式はしたけど、こんな形式的なことをしないと故人は喜ばないのかな…と。
もちろん世間体だってあるのでやらないというのは難しいと思います。でもここまでのことをして、果たしてどれくらいの意義があるのかな…って思ってしまうのです。
故人を偲ぶ食事会で酒を飲んで下世話な話をする親族
そしてその思いを決定的にしたのがこれです。
法事の後って、大抵食事会みたいなのが催されますよね。名目上は故人を偲んで思い出話に花を咲かせる場ってことになるのかな。
でも私が見たのは「親族での単なる飲み会」でした。真っ昼間からタダ酒(お悔やみがあるのでタダとも言えないですが)を飲みまくり、話す内容と言えば故人とはかけ離れた下世話な内容ばかり。
こんな、仕事帰りに居酒屋みたいなことやって、一体どのあたりが故人のためになってるのかがわからなくなってしまいました。
私が死んでも葬式とか法事はしなくて良い
死後の世界はよくわかりません。ですが、私はそのよくわからないもののために残された人達の貴重な時間やお金を使って何の役にも立たない形式的儀式はやってくれなくてよいと考えています。
年をとったらまた考え方は変わってくるのかもしれません。こんなこと言ってても私も毎年墓参りしてますし。
でも墓参りと葬式・法事では規模が違いますよね。意味のある催しならいいと思うのですが、今のところ私には意義が見いだせません。
残された家族や親族には、最低限の手続きだけしてもらって焼いて埋めてもらえればいいです。共同墓地でも構わないと思っています。本当に私のことを思ってくれてるなら、死後の私にお金と時間はかけてほしくないです。
「葬式不要」の遺書を書いておこう
しかしながら、葬式はいらないと私が思うだけではダメなのです。今私が死んだら、残された家族はきっと葬式をすると思います。
なので、遺書を残しておくのです。葬式はしなくて良いという旨を書いて。
遺書にまで書かれていたら、それでも葬式をするような遺族はなかなかいないはずです。なんてったって故人の意思ですからね。
まとめ
- 葬式とか法事がどれだけ故人のためになるのか理解できない
- 私が死んでも葬儀・法事は不要
- 残された遺族には違うことに時間とお金を使ってほしい
なんかものすごく非常識なこと言ってるのかもしれませんが、皆が皆盛大な葬式を望んでるわけではないと思うのです。
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